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日高新報コラム

和歌山工業高等専門学校総合教育科の教員が日高新報に連載しているコラムです。


2023年
私たちはみな、色メガネをかけて世界を見ている

 ヨーロッパ留学中、私はサングラスをかけて外出することが多かった。なぜか?「それは太陽のせいだ」。アルベール・カミュ『異邦人』のあまりにも有名なこの一節は、ユーロ高に苦しめられた私の留学生活の不条理を言い表しているわけではありません。パリは、高く昇らない太陽の光が石畳に反射する明るい街です。輝く太陽に誘われて私たちがサングラスをかけたなら、私たちの眼前には色褪せた世界が広がります。世界の見え方が少し変わるのです。

 哲学を専攻する学生は大学1年次に哲学概論の講義を受けるのが一般的です。そこでは様々な哲学者の思想が紹介されますが、私が受けた概論のなかで最も強く印象に残っているものの一つは、色メガネと思惑(思枠)の話です。私たちはみな、ちょうど色メガネをかけると色彩の変化した世界を眺めるのと同じように、自身の心のフィルターを通して解釈した世界を見ているというのです。私たちは普段、「事物ありのまま」を見ていると思いがちですが、そうではなく、心のフィルターを通した瞬間に、他者も自然も、そして自分自身も、あらゆるものが「私に思われたもの」に変わってしまいます。

 すると、私たちの認識はすべて、事実に基づいた認識というよりも、或る意味で先入観や偏見になります。私たちの認識の源泉にはめ込まれた心のフィルターは、私たちの人生の歩み全体がそのフレームをつくっているために強力で、サングラスをはずすような具合には簡単には取り去れません。それでは、私たちは日常生活の中で物事を正しく認識することをあきらめなければならないのでしょうか。

 いえ、たとえ普段は偏見や先入観でしか世界を眺められないとしても、私たちには、偏見や先入観で物事を見ているという自覚をもち、自らの事象の捉え方が本当に適切であるかどうかについて立ち止まって考えることができます。哲学という学問を通して、人間が世界をどれだけ豊かに多様に解釈できるかを学んできた私は、色メガネをかけてしか世界を見れないことを自覚するところから出発して、可能な限り深慮しながら世界を眼差していきたいと願っています。
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異文化理解を深めるために

 異文化理解は、欧米大好きな私にとってはもちろんのこと、外国語教育においても重要なテーマです。しかし、その学習を日々の授業のなかで実践することは難しいものです。教員は他国の文化についてテキストや写真などを用いて紹介することはできますが、学生がそれを体験するためには、留学するなどしてその文化に直に触れねばなりません。そこで、私は毎年、「バーンガゲーム」という異文化体験ゲームを授業に採り入れています。アメリカの大学教授が考案したこのゲームでは、参加者は異文化に接する疑似体験ができます。

 先日、和歌山県内でフランス人2名の世話をする機会がありました(本紙にも取材していただきました)。私にとっては和歌山の魅力を異邦人に紹介する、そして、協力してくださった多くの人々にとっては異文化コミュニケ―ションを体験するいい機会になりました。ところで、異国の人々との時間と空間の共有は、異なる風習や作法を持つ者同士の交流について考える契機になります。とりわけ、「郷に入らば郷に従え」に基づく文化紹介は好ましいのだろうかと私はいつも疑問に思っています。

 私たち日本人が外国を訪れたとき、その国の文化にすぐに順応して、例えばヨーロッパであれば食事の際に音をたてない、入店の際に店員に挨拶するなどのマナーを実践することは、その知識も習慣ももたない者にとってはとても難しいものです。日本に来る外国人にとって、日本文化の多くは異質で馴染みのないものです。それなのに、日本人が外国からの訪問者に対して日本のマナーを強要すれば、せっかく日本文化を楽しみにしてくれていた彼らも困惑してしまいます。

 異文化に興味をもち、異国の友を心からもてなそうとする態度は、国際感覚を身につけるために踏み出すべき第一歩です。そして、よりよい国際交流を実施するためには、言語運用能力を磨くことはもちろんですが、相手の文化や流儀を尊重しながら自国の文化を体験してもらうという、各人のバランス感覚がとても大切なのだと思います。そのちょうどよい按配を知るためには一人ひとりが異文化理解の場数を踏む必要があると私は考えています。なので、国際交流は、かけた時間と労力の割には成果が見えにくいなどと批判されがちですが、そのバランス感覚を磨くために、効果がわかりにくくても実施し続ける意義があるはずです。
外部化と技術の倫理

 チャットGPTが世間を賑わせています(私がこのコラムを執筆しているのは5月上旬です)。インターネット登場以来の衝撃であり、世界を変える存在とまで言われているチャットGPTは、自然な文章を生成する人工知能です。その能力は高く、例えばチャットGPTによって書かれた小説の応募が多すぎて出版社のコンテストが中止になった、という話を私は聞きました。また、チャットGPTを利用したレポート執筆のガイドラインをはっきりと示している高等教育機関はまだ多くありません。さらに、個人情報の流出や機密情報の漏洩などの可能性が指摘されています。そして、AIが人間の仕事を奪うと言われ始めて久しいですが、チャットGPTも多くの仕事を奪わないかと心配の声が上がっています。このツールをいかに規制し、いかに上手に利用できるかが問われていくことでしょう。

 ところで、これら以外に私が気になるのは、チャットGPTは、文章を執筆することを生業とする人々の糧だけでなく、それを使用する人々の文章作成能力を奪ってしまわないか、ということです。古代より人間は便利な道具を無数に生み出してきました。そろばんの発達により算術が発展し、羅針盤の発明により人々は遠くの場所に航海できるようになりました。しかし、電卓のおかげで計算ミスは少なくなりますが、それを利用する者の暗算能力は衰退しますし、ナビゲーションシステムに道案内を任せると目的地に迷わず到着しやすくなりますが、地図を読んだり道を覚えたりする能力は向上しなくなります。このように、優れた技術によって生み出された便利なものに頼れば頼るほど、人間は能力を低下させてしまうかもしれません。経済学用語を借りるならば「外部化」とでも呼ぶべき文章生成AIへの依存により、私たちは美しい文章を紡ぎだす力を今後失っていかないでしょうか。

 人類は新しい技術を生み出すたびに新しい倫理的問題に直面してきました。インターネットがなかった時代には情報倫理は必要ありませんでしたが、私たちはもう、その知識なしには情報化社会で適切に振る舞えません。AIの倫理はこれからますます議論されねばならないでしょう。というわけで、この日高新報を読んでいる、地元愛あふれる素敵な高専生にメッセージです。「技術の発展と人間の能力および倫理の問題を、技術者倫理の授業の中で一緒に考えましょう」。
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2022年
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雨傘と哲学

 この連載エッセイの表題は「ミシンと雨傘」です。家庭科で裁縫実技試験の成績がクラスで二位だったことが中学校時代の唯一の自慢ですが、残念ながら私はミシンとは縁がありませんでした。しかし、雨傘と聞けば様々な記憶がよみがえります。かつて水色とベージュのリラックマの雨傘をさして時雨れるパリ市内を徘徊していたのは確かに私ですが、むしろフランス北部の港町を舞台にした名作「シェルブールの雨傘」の存在をここでは指摘しておきたい。なぜフランスの話ばかり出てくるのかといえば、私の専門がフランス哲学で、パリに留学していたからです。私は和歌山高専ではスポーツ科学の活動ばかりしているので、教職員も学生も、私の専門はスポーツだと思っているようですが。

 それにしても、哲学とは何か、哲学で何ができるのか。哲学者と呼ばれる人にはこの種の疑問がよく投げかけられます。哲学は「知を愛することだ」とか「ものごとをよく考えることだ」とか、いろいろな回答がありえますが、未熟な私は偉大な先達に遠慮なく知恵を拝借することにします。フランスの科学哲学者ジル・ガストン=グランジェは『哲学的認識のために』の中で哲学の本性について論じました。曰く、哲学することとは自らが意味するものの表現を探し求めることであり、哲学的活動の適用範囲は人間の経験全体である。

 私は彼の考え方が好きです。人間の個人的な経験こそが哲学の源泉であると私も信じているからです。優れた思想は喜びにも苦しみにも彩られた豊かな経験に根ざしています。実際に、哲学の研究でいい仕事をしたいなら、研究室や図書館の本だけでなく世界という大きな書物をたくさん読み、多くの経験値を得ることが大事なのだと私は実感してきました。

 自身の経験から他者の経験にまなざしを向けたとき、固有の経験が生み出す思想が人の数だけありうることに気づきます。私が私特有の生を志向してきたのなら、他者もきっとそうであるはず。こうして、私が特別であるのと同じくらい他者も特別な存在であることを再認識できます。美辞麗句としての他者礼賛ではなく偉人との対話と思索の果てに得られた他者への敬意は、私自身の生き方をこれからも支えてくれることでしょう。

 ここまで、グランジェの思想から創出した私の考えの意味を表現しようと試みました。私はこのようにして、私の経験から出発して、自らの思想や人生の意味とその表現をいつも探し求めています。
電車に揺られて

 和歌山に来て半年が経ったある日、御坊市内を南北に縦断する紀州鉄道に初めて乗車しました。どこまでも青い空と海をかろうじて分ける水平線を背に、深緑の紀伊山地に向かって、どこか懐かしく淡い雰囲気を残す住宅地をのんびりと進む。わずか十分ほどの旅だが、せわしい日々の中でこんな時間があってもいい。

 久しぶりに電車に揺られていると、パリのメトロの感覚も揺り起こされました。当時は、大学院生として留学生活を送りながら、研究(と野球)に明け暮れていました。車内で乗客が平気で通話しているあたりはフランスらしい。他者に座席を譲る行為は世界共通だなと安堵する。日本では、特にお年寄りの方や妊婦さんに席を譲ることは善い行為だとされているし、小中学校の道徳の時間ではそう教えられます。しかし私は、座席を必要としている人に座ってほしいという気持ちが本当にあるなら、最初から席に座らずに立っていればいいと考えて、それを極力実行してきたのです。

 私はなにも善人や聖人になりたかったから倫理学の研究を志したのではありません。私たちはなぜ既存の社会規範に従い、善い行為として世間一般に推奨されている振る舞いをせねばならないのか。このような疑問に囚われては、それを探究せねば気がすまなかったのです。

 他者に評価されうる限りで道徳的に振る舞うこと(道徳的であると認識されうる)と、たとえ他者に評価されなくても道徳的に振る舞うこと(道徳的であると認識されない)とでは、どちらが本当に好ましいのでしょうか。意図はどうであれ席を譲るなどして道徳的に振る舞うのは素晴らしいことです。他方で、車内でずっと立っていれば、道徳的な意思を直接的に示すことができず、他者に善行を認めてもらえないでしょう。それでも、たとえ行為者には不遇でも、さりげない思いやりがあふれている社会は全体的に見れば気持ちのよい社会だと私は思います。

 行為の外的な価値ではなく内的な道徳性を信じて道徳的に振る舞えるかという問題意識の先には、メタ倫理の遥かなる地平が広がっているので、このあたりで話を終えましょう。それにしても、こんなひねくれた考えで電車に乗っているのは私ぐらいではないかと思っていたら、永井玲衣さんは『水中の哲学者たち』の中で「席を自分以外の他者に開放しておくことこそ善ではないか」と書いていました。同じような考え方をしている人がいました。あぁ、よかった。
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勉強しなくちゃいけないの?

 新学期が始まると学生たちの悲痛な叫びがときどき聞こえてきます。どうして勉強しなくちゃいけないの、と。

 私は以前、中学校の道徳の授業を担当していました。生徒たちは、教科書と副教材を用い、読解と対話を通して、「思いやり」や「自主、自律」などの道徳的価値を学びます。当時はまだ道徳が教科化されておらず、教材選定の自由度が高かったので、私は野矢茂樹さんの『子どもの難問』を適宜使用していました。

 この本は、人々が大人になるにつれて問うことをやめてしまいがちな疑問に、大学で哲学を教える先生たちが回答するという構成になっています。「勉強しなくちゃいけないの?」もそういった問いの一つであり、学生からの問いかけに教員が真剣に答えるべき問いです。

 私が受けもった中学生たちは、その問いに対して、「夢を実現したいから」といった将来の目標や「勉強しないと親に叱られるから」といった喫緊に対処すべき課題を理由にして、中学生らしく回答してくれました。

 中には「勉強自体が好きだから」と回答してくれた生徒もいて、私の注意を惹きました。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、手段と目的を明確に区別することで様々なことを論じました。一方で、何かのためにすることはすべて、目的のための手段です。したがって、夢を実現するための勉強、叱られるのを避けるための勉強は手段です。他方で、目的そのものを追求することはより善いことだとアリストテレスは考えました。何かのために勉強するのではなく、勉強すること自体を目的とする方が善いと言うのです。確かに人類は、未知のものを探究し便利なものを案出しながら、科学と工学を発展させてきたように、本性的に学ぶ生き物です。何かのために勉強するだけでなく、学ぶこと自体を目的にして、それを純粋に楽しむことができれば、今は勉強に苦労している学生たちも学びに積極的になれるかもしれません。そして、教員とは、学生がそこに至るよう手助けする存在ではないでしょうか。

 私が所属する高専は高等教育機関で、教員は研究者でもあります。研究者は、出世のためとか、研究業績を出すためとか、そんな目的だけで研究しているわけではありません。みな、職務の傍ら知的探究を日々楽しんでいるのです。学びを楽しむ姿を教員自身が示すことが、学生の学びへの意欲を引き出す最善の方法であり、学生の学びを実際に支えているのだと私は思います。

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